2014年8月16日土曜日

山形東高 うぜん33クリエイティブの引っ越し

山形東高 うぜん33クリエイティブ は山形東高同窓会ホームページ

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何かありましたらHP委員会まで連絡をください。

HP委員会

2014年7月26日土曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(38)

私の山歩き里歩き紀行・山形編(38)

 

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  新潟山形県境日本海沿岸を北上し鼠ヶ関へ

  

 今年の秘湯の会の行き先は新潟県境に近い山形の温海温泉であった。我が故郷の山形県内だが生地東根とは遠く離れた庄内も最西で新潟県が直ぐだ。私の知る限りでは日本海側の普通の温泉で、秘湯には属さないと思う。近郷近在からの湯治場である。連れて行って貰う会員は会長推薦に従う外はない。

 

 鼠ヶ関海岸から関所跡へ 会長自ら運転する車は、9時前埼玉上尾を出発し関越道路を走り、正午頃新潟市内インターを右折し、山形県境へと向かった。新発田、村上、笹川流れを経て、日本海を眺めながら山形県へ入り、 1630分過ぎ車が駐まった地は、鼠ヶ関であった。弁天島前で、右は漁港、海産物を並べた土産店は閉店準備中。厳島神社に参拝し、島裏の小さな岬を巡る。磯には釣り人が見える。突端には灯台があった。岬には様々な花が咲いている。花の名が不明なのは残念だが、白にピンクが混じった花は浜昼顔だろう。カメラに収めた。戻り道は少し広い整備された遊歩道。崖にかんぞうの花を見付けた。キスゲに似の濃い黄色の花である。当地にも義経伝説があって、近くに上陸の碑があると知り、回って貰ったが、作家村上元三が調査した処、義経都落ち平泉行きの経路として佐渡経由で当浜に上陸したとあり、安宅の関通過と似た話が記載されていた。本当かなと思わないではない。

 

 鼠ヶ関関所跡は近かった。小さな遺跡を見学しこれで奥州三関を訪ねたとメンバーの一人は言ったが、私は二度目で(98.4.30)16年振り。中学同級会出席した帰途大回りし羽越線で帰京する際、途中下車した。この時、街中に県境があり隣同士で違う県と知りびっくりした。最近の調査で、現在の遺跡は江戸期以降近世の関所跡で、その前の関は別に新潟寄りあると分かったとあるが、その地の案内はない。

 

 笹川流れでカモメと戯れる 

鼠ヶ関到着前、村上から笹川流れに寄り、遊覧船に乗った。海に落ち込んだ崖や小島、岩礁が織りなす景勝の地。そして、海も美しい。遠くには粟島が霞む。船に乗ろうという会長の提案に、3人の会員は皆頷いた。私は、確か二度目だが、防波堤が築かれ、船も大型である。波に揺られながら、変わる風景を眺めていると船内に子供の歓声が聞こえ始めた。カモメに餌をやっている。私もえびせんを求め、一時海猫と戯れた(写真下)。手に持ち窓から突き出すと、多数の海鳥が寄って来て一瞬にして奪われてしまう。上手というか馴れたカモメや海に落ちたのを拾う海猫もいるが、儘ならないカモメもいる。不器用か性格がおとなしいのだろうか。乗船の待ち時間土産店で、焼き立ての小魚をつまみながら缶麦酒を飲んだ。

 

 温海温泉へ 

鼠ヶ関から温海温泉は近かった。先の戦争の終わり頃亡父が、当地の浜に塩田作りに徴用された話しを思い出した。戦争末期塩不足解消の窮余の策だったろう。私が生まれた時期で、後に父に2,3度聞いたことがある。温泉で汗を流し、日本海の魚や岩牡蛎を肴に庄内の地酒で、明日の山登りに備えた。         

                                                               (2014年6月14日歩く 13回卆工藤 莞司)

                                                                                                 

2014年6月16日月曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(37)

: 私の山歩き里歩き紀行・山形編(37)

 

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 故郷の名峰甑岳にチャレンジする(1994)

 

 甑岳は、宮城県境周辺の山以外では山形県北村山地方最高峰で、標高1,016mあり、子供の頃から、朝な夕なに仰ぎ眺めて来た山である。夏休み帰省を機に計画した。

 楯岡(山形県村山市)口から登った。登山口は、東沢公園へ行く手前見付かり、歩き始める。車も通行可能な林道をしばらく進む。間もなく林道も終点となり、丸木橋を渡って登山道となる。三本の丸木からなる橋は二本が折れていて、一本のみ通行可能で慎重に渡る。緩やかな上りの杉林がしばらく続く。

 

 登山口の案内図には頂上まで6kmとあって、2時間30分前後で頂上到達と読んだ。清水、馬立沼を通過。新道旧道分岐点で、約1時間経過し、腰を下ろして休憩。汗で濡れたシャツを着替えて出発。栗や楢の林の中を、倒れた大木を超えて進む。林の最後の地点が急坂でそこを上ると尾根へ出て、東根側が見えた。標識があり、「左頂上、右東根ハチガ沢山荘」とある。緩やかな尾根道を上り続ける。時々、東根側の山々が見える。岩場も無くて歩き易く、木々も低くなる。意外に遠いなあと思った途端に、少し広いスペースに出て、そこが頂上。念願の甑岳山頂に立った。

 

 頂上は、360度とはいかないが、展望が良い。東は黒伏山系、西は葉山山系、そのそ間に、東郷、 神町、天童、最上川を挟んで谷地、大久保方面が見事に見える。東根本町や楯岡は、近すぎ山の真下。村山平野は稲穂の黄金波を打っている。

 頂上には、祠、最上徳内(楯岡出身で江戸末期の北方探検家)の顕彰碑があった。

 頂上から尾根道を下る。上る時は気が付かなかったが、意外に急降下だ。途中、登山の服装、装備をした男女5人の中高年グループに出会う。甑岳も中高年登山者の恰好の山であろう。

 頂上・東根(ハチガ沢山荘)分岐点に着き、東根側に下りようと決心。ハチガ沢山荘への道は最近歩いた形跡は無いようだが、急坂には階段やロープがあり一応整備されている。しばらく、防火線として設けられた土塁の上の道を進む。ハチガ沢の六の坂から一の坂を下り、ようやく山荘に到着。途中、右手に沼が見えた。大木沢沼だろうか。

 山荘は無人で、宿泊施設でもなさそうだ。山荘前の木製のテーブルで昼飯を戴く。ハチガ沢の下り口は、多分こうだい橋のところだろうと予想。ハチガ沢は深く、下れども下れども沢は終わらない。約40分を要してハチガ沢を抜け出し、こうだい橋を通過。東根目指して歩き、1330分に実家へ無事帰還した。                                                                  

                                                                      (94/9/18歩く 13回卆工藤 莞司)

                                                                                                                                                                                

2014年5月12日月曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(36)

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雛祭りの時期に帰省し旧家の雛飾りを巡る

                   

 故郷山形村山地方の旧家に江戸時代からのお雛様が遺り、この時期公開されていることは以前から知っていた。最上川を利用した舟運が栄えた江戸期に京へ紅花を運んだ帰り船で様々な物資が持ち返られたが、その中に雛人形もあり、最上川沿いの豪商や名家から引き継いだ旧家での公開が河北町谷地から始まり、今ではわが東根まで広がっている。

 

野守の宿で雛と絵を観る 

実家滞在の二日目、隣町内にお住まいの恩師のお宅にご挨拶した後、本町通りへ出て商店街へ。郊外に大型量販店が出来た現在でも、子供の頃からあった洋品店が健在で、懐かしくもあるが頑張りも感じる。雛祭会場"野守の宿(ヌモリノヤド)"は八日町の大通りに面し、漬物店を営む壽屋の隣。元大地主の邸宅で、広い土間から屋内へ入って見学。右手の座敷が雛飾り会場。8段飾り程の古いひな人形が数組飾られている(写真上)。説明によれば主に市内各家所蔵のものらしい。有名な享保雛もあると知ったが、確かめるのを怠ってしまった。弟が一緒で、彼は撮影可能と知り、アングルを探してはシャッターを切っている。

 左手が広い蔵座敷。こちらには、日展審査員武田敏雄画伯の作品が展示中。彼は中央でも有名な地元在住の洋画家であるが、作品を鑑賞するのは初めて。私の記憶では、武田さんは中高時代野球選手として知られていたと思う。彼の弟が同級生。葉山から月山を描いた絵が印象に残った。隣の店舗へ戻り店主Aさんに挨拶し、お茶をご馳走になる。私の一級上で、小中は勿論、大学でも先輩。長年地元経済界トップとしてご活躍で、東京の集まりでもお会いすることがある。そんな雑談を交わして、辞した。

 

女主人の話を伺った梅ケ枝清水 

次の会場"梅ケ枝清水(メガシズ)"へ向かう。大通りを左折し竜興寺沼畔の雪道から小学校校庭で大欅を見上げる。葉を落とした老大木は少しスマートに見えるが、お墨付きの日本一の大欅。養源寺から東根城主里見公の御霊屋を眺めて、梅ケ枝清水へ。こちらも元大地主のお宅で、広い座敷一杯に10組に近い赤毛氈の雛壇が飾ってある(写真下)。現在当家では郷土料理を提供し、旅番組にも登場しているという。先日来の大雪で国道48号が不通となり仙台方面からの客が絶えたと、女主人は嘆いた。本日も、我々以外見当たらない。

 当家や梅ケ枝清水の由来を伺った。やはり東根一の大地主Y家に繋がるという。また、梅ケ枝という姫を巡る悲話は、子供の頃祖父から聞いていた話と一緒であった。礼を言いお屋敷を出て八幡様に詣で、Y家大邸宅前を通りお城のような石垣を眺めて、本町から柳町への実家へと戻った。

 

 拙著800号紀行本出版祝は東根温泉のホテルで、18時から始まった。恩師や同級生、それに従兄弟・姉妹達と22名も集まって戴き、至福の時間であった。超90歳の先生方から元気を貰い、御礼の挨拶で、思わず900号、1000号を目指すと口走ってしまった。

                                                                       (2014/02/25 13回卆工藤 莞司)

                                                                                                                                                                                

2014年4月12日土曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(35)

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冬の蔵王で40数年振りに樹氷を見物する

 

 2月末に、故郷の同級生達が、昨秋出版した拙著「山歩き里歩き800紀行」の出版祝の会を東根温泉のホテルで企画してくれ、前日出発した。この機会を逃さず、念願の蔵王樹氷を見物することにした。平塚在住の弟が同行してくれた。

 

 40数年振りの冬の蔵王 冬の蔵王は何年ぶりだろうか。上京前は時々スキーに通ったし、上京後も数年間は年に一度は帰郷して滑ったことがあったと思う。ボーゲン程度の初心者の技術で、地蔵様の前からザンゲ坂の樹氷原コースを、転んでは起き上がりながら、上の台へ下りた思い出がある。この頃は樹氷には感心はなく、逆にスキーで突っ込み邪魔だと恨んだこともあったと思う。20歳前後の頃であった。

 ゴンドラで地蔵岳下へ 山形駅前からバスで蔵王温泉へ上がった。バス待ち時は陽が差したが、曇り空。市内にも雪があり、蔵王温泉付近は流石に多いが寒さは然程ではない。地蔵様迄はロープウェイで上がろうと山麓駅からゴンドラへ乗車。平日なのに結構込んでいる。樹氷高原駅で乗り換え、地蔵山頂駅到着。駅舎を出ると、一面真っ白な銀世界。そして寒い、先程零下11度との表示を見た。雪に備え、本日はスパッツを着けた。大型のものは普段使用しないため、劣化を心配したが大丈夫。

 ザンゲ坂で樹氷を見物 先ずは、地蔵様を探し、挨拶代わりの参拝。賽銭箱の先に頭だけが見える、異様なお地蔵さん。デジカメに収めて、樹氷見物を開始。天候が悪い上白一色で樹氷がハッキリしない。青空の下が似合うと思う。今年は出来が良いと聞いていたが、私には小さく見える。多くの見物客の中、シャッターを切りながら樹氷の間を巡る(写真上)。雲間から陽が差した時、宮城県側に樹氷原が見え、慌ててカメラを向けたが、捉えられたか。ザンゲ坂方面へ行く。スキーコースだが、若者達がスノーボードを準備している。最近の傾向だろう。スキーも我々の時代より短くなっている。こちらの方が、眼下に広がる樹氷が良く見える。モンスターや嘴、目のある鳥形などに見えるから不思議だ(写真下)。カメラが趣味の弟も、盛んにシャッターを押し続けているようだ。駅舎上の展望台へ出たてみたが、天候が良くなく、周囲の景色を眺めることは出来なかった。またロープウェイで下山。ゴンドラから見えた樹氷地帯やブナ林にも、カメラを向けた。

 東根の実家へ 温泉駅からバスで山形市内へ戻る。駅前の先輩のお宅へ寄ったがお留守で、残念。実家への土産を駅地下で求め、普通電車に乗りさくらんぼ東根駅へ。駅に着くと、兄が車で待っていて呉れた。                                                                              (2014/02/24 13回卆工藤 莞司)

                                                                                                                                                                                

2013年12月25日水曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(34・未完)


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遂に故郷の名峰・御所山山頂に立つ

 我が憧れの山、御所山 御所山は山形、宮城県境にまたがる標高1,500mの山で、全国的には船形山として知られ、現在では日本200名山や300名山に選ばれ、深田百名山の候補でもあった名峰である。小生にとっては、我が故郷東根の最高峰でもあったことから憧れの山であった。亡き祖父(1883年生)が青年の頃に登った自慢話を良く聞いたし、また佐渡に流された天皇が脱出し最上川を遡上して御所山に隠れた伝説や粟畑の仙人の話などに纏わる神秘的な山でもあった。
同級生と登る 今回はS君、Y君それにS夫人のK子さん。今回は彼の経験が頼りで、リーダーをお願いした。K子さんは、中学時代とS君と結婚当初に登り3回目と聞き、驚くとともに頼もしく思う。

ブナの原生林に出会う
 S君宅に集合し、車で柳沢小屋を経て林道終点まで入る。我々のコースは六つある登山コース中の観音寺コースと呼ばれ、交通が不便なこととアプローチが長いためか、このコースを紹介した資料は少ない。明治期の祖父は東根から歩き途中の山中で野宿したと聞いたように思う。S夫妻も30年前はテントに泊まったという。緩やかな上りの山道を進むとブナ林に出会う。その見事さに驚嘆し、感動する。これまで、丹沢や奥多摩でもブナを見たが物の比ではない。大木、古木が林立し下方の沢に向かって一面に続くブナ林を見て、これが原生林というものかと納得する。ブナの原生林は、粟畑付近を除き、山頂下まで続いた。
姿を現した御所山 粟畑で休憩し、仙台カゴ(篭を伏せた形の山の意)下の水場で水を補給する。楠峰手前の林が切れた巻道で、左手奥に雲を抱いた御所山が初めて見えた。山容が船をひっくり返した形に似ていることから船形山とも呼ばれる。山頂は遥か遠く、しかも緩やかではあるが下り始め、懐が深い山を実感する。K子さんが中学の時に五つの山を越えて登る山と教えられたとの話を聞いて、昔、五所山と書いた資料を見たことを思い出す。休憩を取りながら、倒木を跨いでブナ林の中を進む。

急登、直登また急登
 仙交小屋跡分岐を過ぎると上りが始まる。急な上に直登で、何故ジグザグに道をつくらなかったと先人を嘆く。ようやく上り切り平らな尾根を進むと右手に頂上が見えた。ブナ林を抜け出し、樹木のトンネルのような道からやがて潅木の中のえぐられた道となる。これが急勾配である上に真っ直ぐな溝のため両手を使い這うように上る。下りが苦手な小生は帰りを心配する程の急な上りで、地図に"きつい登り"と特注のある地点。15分上っては数分休みを2,3度繰り返すと潅木が背丈より低くなり、頭上に風を感じ、頂上が近いことを知る。

遂に山頂に立つ
 11時23分に頂上に到達。上り始めて約3時間。明治期に祖父も立ったかと思うと感無量。頂上一帯はお花畑に囲まれた岩石の広場。すでに10人前後の登山者が昼食を楽しんでいた。我々も仲間に入り弁当を広げる。お花畑で咲き誇る白い花はチングルマと教えて貰う。西北に見える筈の月山、鳥海山などの山々は雲の先。それでも、時々雲が切れて近辺の山々が美しく、黒伏山などを確認する。

無事下山し皆で喜ぶ
 下山は上りと同じ観音寺コース。頂上直下の急勾配の道をストックを使い、草木に掴まりスピードを殺しながら慎重に下る。頂上で会った東根山岳会の若者は走るように下って行った。粟畑の先で最上カゴを右手に見た後、最後のブナ林をしっかりとカメラに収め林道終点に下山。K子さん、手を挙げて下山の喜びを表す。彼女も本当は決して楽ではなかったのだろう。小生も登頂を果たした満足感と無事下山した安堵感を同時に味わう。帰りに柳沢小屋の水場で汲んだ水は、S君の推薦通りブナ原生林の下から湧いた名水だった。

 (2013/8/22 13回卆工藤 莞司)

2013年10月14日月曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(33)

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 連続する急降下の下りに参った面白山


 天童高原から面白山へ 本日故郷滞在3日目となり帰京する日。帰り掛けに山形面白山(1,264m)に登ろうと、登山口天童高原へ兄に車で送って貰った。登山道に入った筈なのに平らな道が続く。これで大丈夫かな思いながらも順調に進み、コースポイント長命水の水場を40分の処30分で通過した。途中木立の間に高峰が覗き、面白山だろうと見当を付けた。尾根へ一登りするとまた緩やかな道。約1時間で三沢山(1,062m)を越すと、前方に目標の山が全貌を現した(写真上)。一旦鞍部へ下りて、急な直登が始まった。最後のアルバイトと一歩一歩上がり続けるが辛い。時々立ち止まりを入れ上り切ったかと思ったが、山頂は未だ先。背の低い灌木の間を行くと面白山山頂であった。既に夫婦ハイカーが休憩中、挨拶をし三角点を踏む。小さな大権現様の社のみがある狭い頂。展望の良い地だが、雲が出て遠望はなく、南方に南面白山や大東岳が見えるだけ。小憩後、11時に下山を開始。山頂下には下る先程の二人の頭が見える。

 難路が続くかもしかコース 直ぐ面白山高原駅へ出るかもしかコース分岐で、右折。楽に下ったのはほんの数分だけ。厳しい下りになった。急降下である上に、直線的で足場もない程の溝状の荒れた道。このような下りが次々と現れて、その度、下るルートの検討に見下ろし、気合いを入れて踏み出す始末。ストックを使い樹に掴まり、踏み場を確かめ滑らぬよう下る。時には蟹の横歩きをする。このような状態が数回続き、長左エ門道に下りた時は40分の処55分も要していた。下りが苦手だけではないと思う。展望のない下り道であったが、一箇所樹木の間に、蔵王熊野岳が見えた地点があった。

 まだまだ難路が続く 駅への最後の下山路も気が抜けない難路が続いた。ここではこれから登る3人と交差した。谷川の音が高くなり、仙山線を走る電車の音も聞こえて、登山口が近いはずだが、下りの険路は終わらない。最後のトラバース状の横道も、肩幅にも満たない上崖崩れした箇所があり、ロープに掴まり一層慎重に進む。沢へ下りて抜けると、登山口であった。後半の下りも、60分の処90分であった。時間よりは無事下山が優先と思い直した。駅前のコース案内を見ると、面白山への数コースの中、かもしかコースだけが"登りきつい"とコメントがあった。やっぱりと納得し、面白山高原駅(写真下)へ近いからと選択したのだが浅はかであった。帰宅後、下山時の写真がないことに気付いたが、下るのに精一杯でそれどころではなかったのだ。

 今回は、同級会参加のため帰省した。多くの同級生達と交流した外、40年振りに東根大滝を訪ね、800号紀行出版の打ち合わせをし、山形名物冷やしラーメンを初めて食べ、、実家ではイルカ汁を作って貰い、その上往きに山寺ハイキング、帰りに面白山登山と盛りだくさんのメニューをこなし、楽しい故郷の夏休みであった。
        
(2013/8/18歩く 13回卆 工藤 莞司)


2013年9月25日水曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(32)

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 みちのく山寺に未知のゾーン峯の浦を歩く

 仙山線山寺駅に降りて、日本こけし神社、薬師堂、芭蕉記念館を巡った後、門前町を離れ仙山線に沿って歩き千手院観音に参拝した。本日は、同級会出席のため帰省の途中で、仙台経由で山寺駅に下車し、JR東日本設定・駅からハイキングの"山寺・立石寺登拝のみち"を歩いている。芭蕉記念館には、奥の細道では尾花沢から東根も通り山寺を往復したが、関連資料の展示はなかった。

 山寺峯の浦コースへ 
 最上三十三観音第二番札所とある千手院は、山裾に建つ小さな寺で参拝者は私一人。手を合わせた後、清水を戴き、境内の案内を見た。裏山にある旧跡や名所を巡るコースが紹介してあり、手許資料とも一致し、墓地裏の山道へ踏み込んだ。
 既に有名な立石寺根本中堂や奥の院から大分宮城県境側へ入り、静かな山中を暫し上り続けると、前方の木立の間に崖らしき風景がチラチラし始めた。近づいて驚いた。大岩壁が待っていた。垂水不動尊で、窟は立石寺を開山した慈覚大師の修行宿らしい。私は、小学時代の遠足を含め山寺は10回前後訪ねているが、未訪は兎も角、存在すら知らなかった地で、峯の浦である。巨岩、奇岩や裂け目が連なる下で、シャッターを切った(写真上)。

 城岩七岩、修験場跡 
 次の城岩七岩にも期待が膨らんだ。出迎えた烏帽子岩を過ぎると、弓張岩、盾岩、猿岩、鏡岩、塩岩、砦岩、冑岩等と次々と大岩があった。麓から眺めると、横一線に七つの岩が並び城郭を形成しているように見えることからのネーミングという。弓張岩上に進み、眼下の小さな集落から面白山方面を捉えた。狭い小径を慎重に下り、毘沙門天岩を抜けると修験場跡の広場であった。案内板があるが、記載とおりの岩等は不明。夏場で草木が覆っているからだろう。電車時間が気になり始め、下りを急ぐ。
寺院跡地を通過。嘗てはこんな山奥にも、寺があったようで古山寺と呼ばれ、当時の山岳信仰の勢いを窺い知る。山肌を削った狭い空間に祀られた石碑を眺めながら荒れた道を行く。捨てられた廃屋を過ぎると、霊園であった。

 急いで立石寺根本中堂参拝 残り時間が少なくなり、石段を上がる奥の院は省略しようと先程決断し、立石寺根本中堂だけに立ち寄る。急に参拝者が多くなり、正面に回って石段から立石寺に詣でる。多分3度目だと思うが、記憶とは違い根本中堂は小さな御堂(写真下)。木造の大本堂の思い出があった。夕方の同級会で話したら同級生Aさんに、それは小学生の時だからよと指摘され、私もそう思った。
 12時59分発の山形行き電車に間に合い、羽前千歳駅で乗り換えさくらんぼ東根駅に降りると弟が車で待っていた。実家の仏前で祖父母や両親に焼香してから、東根温泉開催の同級会へ向かった。
                           
                                      
 (2013/8/16 歩く 13回卆 工藤 莞司)                   
                    
 

2013年9月4日水曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(31)


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 憧れの西吾妻は変化に富んだ山であった


 西吾妻山(2,035m)に登った。深田百名山にも選ばれた我が故郷山形の名峰である。

何故か駅からハイキング誌に掲載されていて、以前からマークしいた山である。大学は夏休みに入り思い切って朝一番の山形新幹線で出掛けた。登山口は白布高湯温泉にあって、現在ではロープウェイからリフト三台乗り継ぐ。後に調べるとリフト終点の地は1,800mであるから僅か200m程度の登攀である。しかし西吾妻は変化に富んだ懐の深い山であった。トレッキングコースとして紹介されている程であるから、楽なコースと錯覚していた。2,000m級の山としては、時間的には余裕があったが、ゴロ石道や岩場の急坂、岩海と呼ばれる溶岩地帯、湿原の泥道もあって、想定以上の西吾妻山であった。

 つがもりリフト終点・北展望台から人形石を目指して山中に入ると狭い上に石がゴロゴロとした歩き難い道。ガイドにも良い道ではないとある程。登山道は木の根や岩石を越して進むのは常態だが、最近では経験のない悪路。上りが緩やかであったのがせめてもの慰め。しらびそ林を抜けて尾根に出ると人形石のある中大巓(ナカダイテン1,963m)に到着。数組のグループが休憩していた。右方先になだらかな緑の峰が広がり、その最高地が山頂のようだ。近寄りがたい北アルプスの岩峰とは違い、柔和に懐を広げて待ちかまえている感さえする。深田も、「人形石の峰の上に立つと、当の西吾妻山は気の遠くなるほど遙か向こうにある。・・・山稜は、稜線というよりは広大な高原で、ここへきてはじめて吾妻山西部の雄大なスケールを見た。」と書いている(「百名山」新潮文庫97頁)。雲が出て遠望はなく、期待した安達太良山や磐梯山は望めそうもない。

 灌木地帯から湿原に入って、木道を行く。一旦下って花畑となり、様々な花がチラホラと咲くのが見えるが、写真は下りにする。大凹(オオクボ)水場先から岩場の道。急登も重なり、軍手を出し両手も使って懸命に上がる。短い区間ではあったが、白馬岳大池コース天狗原先の岩場を思い出した(91/8)。再度湿原となり池糖が散在してワタスゲが咲いている。白いこの花は家内が好きであった。梵天岩から天狗岩と溶岩地帯となる。後方の遙か下には先程歩いた木道が続いているのが見えた。岩石地帯を下りると3度目湿原で泥濘状態。先へ進む外はなく泥の中に足を踏み入れた。先程来の標識が「48/50」、「49/50」となり山頂が近いことを知る。

 西吾妻山頂上は樹林に囲まれた展望もない狭い地であった。標柱がなければ見逃す程のスポット。記念にカメラに収めた。誰もいない山頂では柱に帽子をのせ、根元にザックを入れた。11時40分、歩き出して2時間弱であった。先に聳える西大巓往復には時間が足りない。バス時間が決まっている。西吾妻小屋を経て天狗岩で、登ったばかりの最高峰を眺めながら昼食。吾妻神社参拝中に携帯が振動。通じるらしいが緊急ではなく応答はしない。岩海は飛び石のように歩けば簡単だろうが、残念ながら年齢と体重でそうはいかない。

 梵天岩、急坂を下って大凹の清水で休憩。高山での夏場の水は有り難い。喉を潤し顔を洗った。お花畑では花々をカメラに収めながら通過する。白い花はシナノキンバイだろうか。下りではかもしか展望台を経由。途中幼児を連れた男女を追い越す。孫らしく、ゴロ石道の下りでは、祖父が負んぶした。孫は多いが小生にはとても無理。自分が下るのに精一杯といった処。予定通り、北展望台リフト乗り場に着いた。下りのリフトからは、草原スキー場でローラースキーを楽しむ子供達が見えた。地元の小中生が冬に備えてトレーニングしているのだろう。バス時間前に下山して、米沢駅か
ら新幹線で帰途に就いた。       

 (06/8/3 歩く 13回卆 工藤 莞司)  
                                    
 

私の山歩き里歩き紀行・山形編(30)

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故郷の霊峰月山は花の咲く山であった

 遂に月山に登った。三度目の挑戦でようやく登頂できた。最初は帰省の際観光に兄に案内された時、家族連れ登山に刺激されて長女と登ろうとした。予定外の山歩きに娘は直ぐ音を上げて、途中から戻ってしまった。子供二人の親となった娘が中学生の頃のことである。その後、山歩きを始めてから毎年目標の山に挙げていたが、実現しなかった。次は、99年の夏のことで、今回も同行したY君の仲間と一緒で、土砂降りに途中で断念せざるを得なかった(99/8/28)。

 月山は子供の頃から思い出の中に在る山である。山形盆地の西方中央に位置し我々を見下ろして、登校時も下校時も、毎日同じ山姿で見守っているようであった。春遅くまでも真っ白な丸い山が印象的であった。しかし蔵王登山は盛んであったが、月山は、素人には無縁で遠い存在であった気がする。

 還暦三人組は、姥沢から往復リフトを利用した。牛首までは姥ケ岳をトラバースするルートで、花畑の中の木道を進み小さな沢を三本を越し、左手には雪渓を見た。牛首分岐手前では緩やかな上りに傾斜が増した。多くの家族連れ登山者達と前後になりながら、30分毎に休憩を取り、人気の山を上り続ける。既に下山する者とも出会う。山頂小屋に泊まったらしい。雨の心配はなくなったが、雲が出て、展望はない。

 牛首を過ぎると本格的な山登りとなる。岩場の急登が続き始めた。しかし、登山道は階段状にしっかりと築かれて危険はない。霊山として信仰登山のために確保されたものであろう。本日の登山者にも白装束の姿が見受けられる。難所は一歩、一歩根気強く上り続ける外はない。鍛冶小屋跡で最後の休憩。頂上まではもう一息だ。S君の話では、最近まで小屋は営業していたという。

 山頂(1,979m)は、我が故郷から眺める山容と同じようになだらかであった。広いお花畑の中の一本道を進むと頂上神社。羽黒山の山伏達が管理に当たっていて、祈祷料を支払わせられお払いを受けて最高地点エリアに入ったが、本殿では祈祷中で、三角点を踏むのを忘れてしまった。登頂記念にお札を求めた。

 山頂脇で昼食中に地震を感じた。結構強く、大山も揺れた。実家に電話すると被害はなく、震源地は宮城県沖という。今回は我が町の里山は見えなかった。十数回登ったS君は眺めたことがあるという。

 下山も上りと同じコース。眼下に広がる緑の絨毯の中に雪渓や花畑を見ながらマイペースで下り続ける。岩場の急降下では、二人に離されてしまった。やはり、2,000m級の登山は久し振りの上、下りは苦手で、慎重にならざるを得ない。それでもそう遅れないでリフト乗り場に着いた。

 月山は花の咲く山であった。先ずはニッコーキスゲの歓迎に驚いた。リフトから降りて歩き始めるとキスゲの黄色の花が目の前に広がっていた。今年は期待した霧降高原では会えなかったので、感激ひとしおといったところ。チングルマやキンコウカ、ヤナギランなどが花畑を占め、道端には濃紫のミヤマリンドウ、白のハクサンチドリ、シナノキンバイの鮮やかな黄花を見付けた。頂上草原にはハクサンフウロやアザミ、ウサギギクが咲き乱れ、食事したのはコバイケイソウの間であった。帰宅後調べると、月山はクロユリでは知られているが花の山とはない。花々をカメラに収めたが、フィルムの巻き上げに失敗して一部が現像出来なかった。残念。 

 念願の月山登山を果たし、予想もしなかった花にも出会い満足して下山できた。年一度の夏山には、コースや時間、厳しさも丁度良い山であった。同行し案内してくれたS、Y両君に感謝する。次は鳥海山にチャレンジしましょう。
         
   (05/8/16歩く  13回卆 工藤 莞司)
 

2013年7月29日月曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(29)


山形へ行かなくとも観賞できた埼玉桶川の紅花畑

 紅花と山形 

 紅花は、安土桃山時代から江戸時代にかけて京染めや口紅などに使われ、江戸期中頃より出羽の山形周辺においても盛んに栽培されるに至り、享保年間(1716−1736年)には、全国の約4割が出羽最上産とした記録があるという。これには、最上川の船運を通じて近江商人と共に、山形商人も活躍した歴史がある。最上川を利用し、山形と京大坂を船で往来し、紅花商人達は、山形から紅餅を京へ、帰り船には日用品を積み持ち帰って各地に商い、最上川中流付近には多くの豪商が出現した。高校時代利用した山形の八文字屋書店もその一つと聞いた。現在でも、紅花商人達が京から持ち帰った江戸時代の雛人形(享保雛、古今雛など)がたくさん残り、春の雛祭りで披露されている。明治になって中国からの輸入や化学染料の出現で廃れてしまったが、現在では歴史を示し、観光用に僅かながら栽培されている。

 桶川にも紅花畑が 故郷の紅花に興味を持ち、以前から一度は山形へ観賞に出掛けたいと思っていた。ところが前回の旧菖蒲町ラベンダー見物の帰りに、桶川駅でべに花まつり資料をゲットした。早速調べると、桶川でも、江戸の商人が種をもたらし江戸時代から栽培されて、桶川紅花として全国的に知られていたとある。収穫が山形より一月早いともあり、当時から山形紅花を意識していたことが窺われる。現在、市内加納地区にべに花ふるさと館、川田谷地区にべにばなつみとり園があり見頃と聞き早速訪ねた。

 紅花と初対面 

 JR高崎線桶川駅から徒歩40分の地に、加納地区の紅花畑があった。やや赤味を帯びた黄花が畑一枚一杯に咲いている(写真上)。紅花畑は畝作りで、列をなして紅花が咲いている。一部には赤味が濃い花も混じっている。この色の花はピークを過ぎ枯れ始めているものと後に知る。もう少し華やかと思っていたがそうでもない。本日の曇天のせいかもしれない。花の位置、背丈も思ったより低い。初めての観賞で、こんなことを抱きながら、畑の周囲を巡り、シャッターを切った。

 べに花ふるさと館へ立ち寄ったが、特に紅花とは関係ないようで、立派な門を構えた古民家を活用した食堂。門前で販売中の紅花一束を求めて(写真下)、近くにあるもう1箇所の栽培地を目指す。少し離れた地に見付かったが、こちらは花の盛りを越した様子が歴然としていた。それでも、二度カメラを構えて写した。先程来雨が降り出し、タイミング良く市内循環バスが来て、桶川駅へ戻ることが出来た。

 来年再訪へ 

 車中、資料を眺めていると、加納地区にはもう1箇所紅花畑があり、見逃していたと分かった。しかし、山形まで行かなくとも、こんな近くで、念願の紅花を観ることが出来ることをラッキーと考え、今回未訪の桶川川田谷地区とともに、来年にでも訪ねようと思い直した。  
               
                   (2013/06/25 13回卆 工藤 莞司)

2013年6月17日月曜日

私の山歩き里歩き紀行(28)


GWに帰省し山形市のシンボル千歳山に登る

 山形市のシンボル千歳山 "千歳山からな 紅花(コウカ)の種蒔いたよ それで山形花盛り"は、紅花摘み唄の冒頭で、子供の頃聞いた山形民謡の一節である。江戸時代当地方が紅花の一大産地であったこと表している。千歳山は山形市の東南に位置する標高471mの里山で、同市のシンボルでもある。高校時代から知り最近になり一度は登ってみたいと思っていた。大型連休の後半帰省することになり、新幹線を山形駅に降り、千歳山を目指す。マップは出発前インターネットで得た。

 岩五郎コースを上る 十日町交差点、諏訪神社、山形南高を越すと郊外へ出て、建物の間に千歳山を捉えた。通過した地点は何処も私が知る時代から様変わりし一変していた。国道13号バイパス下から登山口に着き、駅前スタート後50分を経過していた。岩五郎稲荷神社参道石段から本殿に挨拶し山道を上がる。本日子供の日祝日で、既に多くのハイカーやジョガーが山へ入っている。道は広く歩き易い。高校時代麓のライバル高校運動部が、この山でトレーニングを積んでいると聞いたことがあった。次第に山道らしくなり、ジグザグを繰り返す。善光寺岩に至り一息入れ、山形市内を展望。先客の女性が一人休憩していた
(写真上)。

 また上り続ける。若者が追い越して行く一方で、下るハイカーと交差する。ジグザグの振幅が狭まり山頂は近い。ほぼコースタイム通りに登頂。意外に広い山頂だが赤松に覆われ展望はない。ベンチで休憩し、高年夫婦の隣で麓の売店で求めたパンを頬張った。

 下山路は岩場あり 下山は万松寺コースと決めていたが、先程売店で、険しい岩場があると聞いた。同コースを上がって来た方に尋ねるとそのような山道という。ザックからストックと軍手を出し、下山開始。少し下ると最初の岩場。里山の岩場出現に驚くも、一歩一歩ゆっくり下り難なく通過する。次はやや長く険しい大岩場(写真下)。こちらも慎重に手も使うが、恐怖感はなく下り続ける。難所を抜けようとした地点で、子供も幼児に出会う。直ぐ下に母親が追っていた。大丈夫かなと思ったが、意外に子供には状況が分からず怖さもないのかも知れない。無事通過を願うしかない。また通常の山道となり、阿古耶の松の碑を経由し万松寺へ下りた。

 千歳山には、実は松の木の精である若者と阿古耶姫の悲恋伝説があり、山頂にも石碑があった。万松寺は山形市内でも有数の古刹と聞いていたが、建物や境内にはその雰囲気は薄い。県庁前でバスを待ち、山形駅へと戻った。実家への途中同級生宅で、麦酒をご馳走になった。山歩き後のビールの美味さは格別であった。

           (2013/05/5 13回卆 工藤 莞司)

2013年4月1日月曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(27)



雨の月山から引き返して登った二度目の甑岳

 山の天候は分からない。朝の出掛けには晴れて今日は大丈夫と勇んで出発した。月山に近づくに連れて天候が悪くなり、登山口姥沢に着いた時は雨は本降りとなってしまい止む気配はない。それでも、雨支度をしてリフトに乗る。益々雨は激しくなり、視界も僅かとなる。こんな時無理して登っても、山の醍醐味、展望などは味わえないし、山は逃げないので次回にしようと決断して、リフトで引き返した。

 天気予報では、山形県村山地方は午後は晴れるというので、急遽、故郷東根の名峰甑(コシキ)岳に登ることにする。甑岳は5年前に登ったことがあり(94/9/18)、一応コースは知っている。同級生Y君の車で村山市浄水場がある楯岡登山口(幕井コース)に着いたのは11時半過ぎ。

  林道終点から沢を渡り、杉林の中で清水で喉を潤し、馬立沼で一休み。休憩中に沼を探す。池程の沼は山中に静かに水を湛えていた。馬立沼先から急登となる。それでも二人で順調に上り、新旧道分岐を通過し、楢林の中で再び休憩を取り、水などを補給する。林を抜け出て尾根に上がると頂上・東根分岐。

新しい標識に「頂上まで1.2km」とある。30分と読んで頂上を目指す。  前回の経験ではこの尾根道が結構きつい上りとの記憶。残り距離を示す標識に目をやりながら急坂を懸命に上る。最後の500mがなかなか遠い。徳内坂途中で堪らず休憩。どうにか頂上[1,015m]に辿り着いた時は、同じ頃上り始めた若者は下山するところであった。

 山頂の芝生で大の字になる。暑さと途中で着けた雨具で大汗をかき、頂上下のきつい上りではすっかりばててしまった。登山などやっていないY君は大変だったと思うが意外に元気な様子。雨は降らないものの相変わらず雲に覆われ前回得られた展望はない。携帯電話が通じ、甑岳山頂にいることを実家に報告した。

 昼食後、濡れた山道に注意して下山開始。小生は下りが苦手な上に雨後で滑りやすく一歩、一歩慎重に下る。Y君はスイスイと下り、小生を待つことしばしば。途中、一瞬雲が切れて東根方面が
見えた。前回は分岐から東根ハチガ沢に下りたが、今回は上りと同じ楯岡幕井へ下り、急坂を確かめながら約1時間30分を要して登山口に下山。

 東根に戻り、露天風呂で汗を流した後、S君宅で麦酒と芋煮をご馳走になった。S君夫妻も一緒に月山登山を予定していたが、急用が出来て不参加。月山は来年の楽しみに延ばすことで一致した。
  今回はY君のお陰で甑岳に登ることができた。月山往復運転プラス登山とお疲れ様
でした。来年もよろしくお願いします。

(99/8/29 13回卆 工藤 莞司 )

2013年1月14日月曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(26)

小百合杉を見付けた最上戸沢幻想の森

“幻想の森”を知ったのは、JR東日本のポスターからだ。森の中杉の大木の前に吉永小百合が写っていた。その森は山形県最上郡戸沢村にあるという。帰省するたび訪ねる機会を窺っていたが、今回実現した。木曜日に故郷へ帰り中学同級生との芋煮会に参加した。翌金曜日は新庄に近い舟形町の猿羽根峠を歩いた。そして、土曜日、兄に駅まで送ってもらい、陸羽西線高屋駅へと向かった。幻想の森の最寄り駅である。
陸羽西線高屋駅を出発 無人駅に降りたのは一人で、目の前は最上川である。駅には地図はなく、以前新庄駅で入手していたパンフ”山形・最上めぐり”のみ。幻想の森の扱いは小さく情報も僅かだ。国道47号へ出て、最上川に沿い歩道を下る。予定通り15分程で、幻想の森入口の標識を確かめ左折し、山へ入った。ここからが遠かった。土湯林道の坂道を行けども行けども、それらしい森は見えて来ない。先ほど、新庄駅で、徒歩でも1時間は掛からないと言われた。沢を橋で渡ると、前方に杉の大木らしき樹木が見え始めた。そして、林道を上り詰めた地が幻想の森で、駅から55分経過していた。
 幻想の森内を一周 早速森内へ進入し、大木、老木を見て回る。杉の木は一本の太い幹が空に向かって直立しているのだが、ここの杉は違う。幹が2本、3本と曲がって分かれそれぞれ老大木化しているのだ(写真上)。案内には樹齢1000年以上の蛸足杉とある。多分、幼少期に裏日本特有の風雪が災いしたのであろう。そのような杉の一群がそう広くはない一画に集中群生している。森内の巡回路も、10分も要しないで、一巡できた。土曜日なのに他には誰も見当たらない。林道で車二台とすれ違っただけだ。森の入り口に腰を下ろし昼食。今朝義姉が持たせてくれたお握りを戴いた。
 “小百合杉”に出会う  食事中、吉永小百合と一緒に写った杉はどれかと気になる。私は昭和36年日活映画”ガラスの中の少女”を見て以来自称サユリスト。奇しくも同学年で大学二部へ入ったのも同じ昭和40年である。“小百合杉”を探すため、もう一回りすることにし、反対側から森中へ進んだ。これがラッキーにも、蛸足杉たちは幹が曲がり分かれているため、見る角度で形が皆同じではないことに気が付いた。また森内では陽当たりも違う。ほぼ中央で、とてつもない杉の老大木を見付けた。根元は一本だが幹が数本に分かれて横に張り出し上へ伸びている(写真下)。これだ、これが小百合杉に違いないと、カメラに収めた。最初に巡ったときは反対側から眺めて、少し太い程度の二本幹の杉にしか見えず、他の幹や根元は真後ろに隠れていたのだ。
 超ローカル線の数少ない電車時間に合わせるため、林道をゆっくりと下り、余目行き下り電車10分前に高屋駅に着き、狩川駅まで乗車し同駅で上り快速電車に乗って新庄駅へ戻り、新幹線で帰京した。今回の帰省は満たされたものとなり車中から、お世話になった同級生や実家へお礼のメールを送った。                                       (2012/10/20歩く 13回卆 工藤 莞司)

2012年12月12日水曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(25)

思い出のシーンには出会わなかった猿羽根峠と最上川

 木曜日に帰省することになった。週末には当然故郷ハイキングを絡めて、歩く先を探した。以前晩秋に最上川沿いに走る車内から美しい紅葉の林を観て猿羽根峠と聞いたことを思い出した。あのシーンを再びと新庄手前にある舟形町猿羽根峠を訪ねることにした。東根の実家からはそう遠くはない。私には、猿羽根峠は新庄節の一節が印象的だが、芭蕉一行も越した峠と知った。前夜開かれた24年振りの部活メンバー芋煮会は、故郷東根温泉に9人中8人が集まり、近くの同級生も駆け付けてくれ盛り上がった。3年間一緒に練習に励み郡大会を勝ち抜き、県大会でも初戦を突破した仲間だ。思い出話しに遅くまで花が咲いた。
 
 羽州街道猿羽根峠を越す 
   猿羽根地蔵尊下までは、車で兄夫婦に送って貰った。三人で地蔵様に参拝し(写真上)、単身歩き出す。羽州街道とあり、一里塚や新庄領との境界石柱を確かめ山中へ踏み込んだ。荒れてはいるが先へ続いている。多分、この山道は旧13号国道へ出るに違いないと思い込み歩き続ける。下りに入ると10分程で、右からの旧13号に合流したが山中は深い。周囲の木々は未だ色を染めてはいない。みちのく最上も今年は紅葉期は遅いようだ。昨日友人に、最近熊が出るから注意するようにとアドバイスされた。熊避け鈴はザックの中。先程、兄から昭和40年頃迄は旧13号を利用していたと聞いたが、現在は現13号の外バイパスも出来ている。展望のない山中の荒れ道を下り続けると、ようやく車の騒音が聞こえ出して、峠下にバイパス道路が見えた。
 猿羽根大橋から最上川を眺める 
   帰省前インターネットで調べたマップで確かめ最上川に架かる猿羽根大橋を目指す。バイパス道路を高架で潜り、現13号国道を渡ると、大河が横たわり、大橋は朱色の鉄橋であった(写真下)。中流に位置する最上の川は川幅一杯にゆっくりと下っている。カメラに収めた。国道へ戻り端の狭い歩道を舟形へと向かう。左下が最上川、右手が峠であり、思い出シーンの地遭遇に期待した。しかし猿羽根峠は頭上遙か山の上。舟形毒沢の最上川展望地を過ぎたが、峠へ上がる枝道はない。雨が降り出した。携帯が震動し雨が落ちて来たと兄からであった。傘を指し猿羽根山トンネルへ急ぐ。手前にドライブインがあり、昼食。少なくない客が食事中。舟形駅までの時間を確かめると約20分と教えてくれ、想定通りであった。短くはないトンネルを抜け峠への入口を過ぎ、坂を下ると舟形町に降り着いたが、記憶にある町並みとは一変していた。約50年前ことだから当然である。思い出のシーンの地や風景に出会わない儘JR舟形駅へ着いてしまった。
 実家のある東根行きの電車は1時間以上の待ち。当地にある巨木”柴山夫婦センノキ”を往復。太い方の樹は葉がなく枯れているように見えた。途中鮎釣りで有名な小国川を渡った。            (2012/10/18歩く 13回卆 工藤 莞司)

2012年11月9日金曜日

私の山歩き里歩き・山形編(24)

変貌した故郷を眺めながら大森山を往復する



 “大森山の禿パッチ ラララ ラララ ラララララ・・・”で、始まる曲は、わが故郷東根本町にのみ伝わる七夕祭りの際、各地区の音楽隊が奏でる定番の曲であった。大森山は本町のシンボル的な山で、位置的には郊外南東にあり、奥羽山系からポツンと離れた標高280mの小さな小さな孤峰である。我が生家からはそう遠くはなく、子供の頃には毎日眺めた里山でもある。石灰岩の採掘跡が本町方面からは白く禿に見えた。しかし、麓は何十回も往復したが、実際山頂に立ったのは1,2回に過ぎないと思う。山には大昔大森秀重の城があって、本町一日町の秀重院が菩提寺と祖父が教えてくれた。サクランボ狩りに帰郷した翌朝、早朝に実家を出て、大森山を目指した。コースは子供の頃、祖父と隣の神町へ歩いたコースと同じとする。

思い出のルートを大森山へ 直ぐ白水川に架かる柳町橋を渡る。旧道へ入り、土手は小学生時代スキーで遊んだ場所だが、現在では低く斜度も緩い。当時は90度に近い高い土手を滑っている感覚であった。左折し五軒通りを行く。少し家並みが増したが、今でも周囲には畑中の道であった面影を残す。原方地区となり十字路で大森山方向へ右折。両側にはサクランボ園が続き、農家は朝仕事に採取中である。一昔前は、一面葉タバコ栽培が行われて、我が東根は有数の産地であった。それが果樹園に変わってしまった。ここの街道には思い出がある。中学一年の時校内駅伝大会があり、その時走った区間だ。1.2kmで全区間中最長距離で、襷を貰った時は前後とも大差があって同じ順位で次走者へ繋いだのを覚えている。
 

諏訪神社石段を上がる 大森山が正面に見えて来た。右手は誘致企業の工場が集まる工業団地。山裾にあった小さな池を思い出し、注意しながら進むも見付からない。テニスコートがある付近と思う。諏訪神社の石段下に至り、神社へ。養蚕家の参拝が多かったようだ。やはり中学時代部活のトレーニングに、石段駆け上がりをしたが、長くは続かなかった。草茫々の近道を登山口へ。このルートは若しかして消えているかと思ったが、何とか残っていた。山腹に切られた車も通れる道を上がり続ける。振り返ると工業団地の先に葉山を従えた月山が見える(写真参照)。未だ真っ白な月の山で、今年は雪が多かったと聞く。電波塔が林立した先が山頂広場。周囲は樹が邪魔し展望はない。僅かに神町方面が開け朝日連峰が望めた。カメラに収め、稲荷神社に手を合わせて、誰もいない大森山山頂を後にした。
 佐藤錦誕生の佐藤家を経由 麓へ下りて、南側にある磨崖仏を眺め、タイパラ地蔵様に挨拶し本町方向へ戻って、途中から小林地区へ左折。小林では表札から、辻村姓を確かめ一安心。以前は小林の住民全員が辻村さんで、同級生が3人おられた。
 スーパー店舗の横に出る。畑の先にあった我々が通学した中学校は今はなく、商業地区に変身し東根発展の証かもしれない。通称ヤマキ様の前へ出る。サクランボの人気品種佐藤錦を育成した佐藤栄助さん宅と果樹園。子供の頃は人里離れた林の中の一軒家であった。庭先にその石碑があった記憶があり、覗いたが不明。また旧道を通り、櫻壇という火葬場跡を過ぎると柳町橋は直ぐで、丁度朝食前に実家へ戻ることが出来た。        (2012/07/1歩く 13回卆 工藤 莞司)