2012年3月4日日曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(13)




朝日連峰、月山、鳥海山を一望した故郷散策








 ゴールデンウィークに妻と帰郷し、新緑の我が故郷、東根の名所、旧跡を歩く。とは言っても大した所はないが、周囲に残る自然が取り柄だ。 やや風は強いが快晴で絶好の天気。先ずは本町柳町の実家から黒鳥山にある黒鳥観音に向かい、日塔川に架かる橋を渡る。昔は一本橋。小学1年の頃大雨で増水した川を見に来て、何故か一人橋を渡り戻るのが怖くなってしまったことがあった。直ぐ、白水川を挟んで本町と原方を繋ぐ源氏坂橋。我々は原方橋と呼んでいたと思うが厳めしい名前が本名。白水川は、春、夏は魚採り、水遊び、秋は芋煮会、冬はスキーと自然の遊び場であった所。たんぽぽが咲く堤防を遡上する。回りは一面田圃で、この辺の風景は余り変わらない。約20分で観音様下に着く。こんなに近いとはちょっと意外、小1時間は掛かると思っていた。




 黒鳥観音は小学1年春の遠足先。6年の時は運動会のマラソンで麓の橋を往復した。山腹に設けられた散策路を辿って観音様に参拝する。丁度祭日に当たり御神酒を戴く。現在の堂宇は1790(寛政2)年建築という古刹で、最上33観音の19番札所。広場の展望台に上ると、青空の下、正面に葉山(1,462M)を従えた月山(1,980m)、左に朝日連峰 大朝日岳(1,870m)が連なり、なんと右奥には鳥海山(2,236m)までが見えるではないか。未だ雪を抱く名峰は、青と白のコントラストが絶妙で、いくら眺めても飽くことを知らない程。直ぐ右手に聳える東根の主峰甑岳(1,016m)も里山に見えてしまう。これを逃してはとパノラマ仕様にしてカメラに収める。お陰で市内を見渡すのを忘れてしまった。確か実家も見えたと思ったが。山麓に日塔沼があることを思い出し急遽足を向ける。畔の碑によれば1703(元禄16)年に潅漑用に築堤したとあり、当時から米作が盛んで水が重要であったのだろう。突然目の前を茶色の小動物が横切る。兎でも猫でもない、鼬(イタチ)かな。とんだハプニング。




 桜桃の白い花が咲く果樹園の間を通って中の目に出る。サクランボは我が故郷の名産。再度日塔川を渡り新町上から津河の方を回って薬師様に到着する。月遅れの5月8日が祭礼で、門前に夜店が並び本町挙げて賑わった。祖父母に貰った小遣いを握りしめ屋台などを覗いて歩いたものである。737(天平9)年に国分寺として設けられ、戦国時には最上義光が羽後小野寺氏討伐際の戦利品薬師像を納めたと案内にあった。梅ケ枝清水(メガシズ)でかす喰らい地蔵を見て八幡様へ右折する。同地蔵に纏わる話を長女が夏休みの宿題の題材にしたことがあった。




 若宮八幡宮は東根の鎮守様のようなもので、大抵の市民の初詣はここの宮。康平年間(1058-65)に神官三浦下野守が戦乱から護るため鎌倉から当地に移したという。210日の大風を避け豊作を祈願する風祭りは有名。境内には四本柱付きの土俵があり奉納相撲が盛んで、校内大会も八幡様で行われ小生も土俵に上がった。横綱鏡里や幕下時代の富樫、後の横綱柏戸もこの土俵で見た。 八幡様周辺の花岡、北の宿には同級生が多く彼らの実家の前を通りその変貌を眺めながら、東根小学校の大欅の下から実家に向けて坂を下る。同校は、1347(正平2)年小田島氏が築いた東根城址にあり往時を忍ぶ遺構は僅かな濠跡のみであるが、校庭の大欅は樹齢およそ1,500年と推定される日本一の巨木 国指定特別天然記念物 で唯一の証人であろう。今朝、老父、妻と 人で見物したばかり。




 午後、兄夫婦と4人、御所山登山口手前で山菜採りに挑戦したが収穫は僅か。山道には未だ雪が残り柳沢小屋までは入れなかった。翌日は同級生の斎藤君に夫婦で招待されて神町祭を見物し、若木山に登る。同山は神町のシンボルだが登るのは初めて。史跡散策、山菜採り、祭と故郷の春と自然を満喫して帰京した。                           (99/5/2歩く13回卆 工藤 莞司)                   

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