2011年7月9日土曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(2)


帰省を利用して戦国期の激戦地長谷堂城跡を巡る

昨年の大河ドラマ”天地人”で、最上領長谷堂城を巡る攻防長谷堂戦は、もう一つの関ヶ原戦として知られるようになったが、1600年直江兼続と最上義光が激突した戦跡は戦国ファンにとっては見逃せない史跡であり、それが故郷にあって、以前からマークしていたが中々果たせなかった。11月になって山形から芋煮会の案内が舞い込み、この機にと勇んで帰省した。 

山形駅前から乗ったバスは郊外へと出て、僅か15分程で最寄りのバス停であった。目の前の小山が長谷堂城跡と見当を付けて、進入口を探した。駅観光案内所で入手した略図に従い、八幡崎口より登城しようとしたら工事中で、大手口へと回り、城跡へと上がった。九十九折りを繰り返すと平地へと出て、曲輪跡とある。その上は横矢掛かりで、侵入した敵に対し側面から攻撃できるようにした防御施設という。長い城跡探訪の中で初めての見学。デジカメに収めた。山頂に至り説明はないが主曲輪跡であろう。虎口が遺っていた。北側は展望が良く、山形市街が見える。山形城より7,8kmの地にあった当城は最上氏の最後の砦であったのだ。ベンチで他の見学者と一緒に休憩した後、反対側へ下りた。 曲輪群跡の間を行く。いずれも小さな曲輪である。山腹を右折して二重濠跡を確かめた。西側へと回り込むと、水田を挟んだ正面の菅沢山に直江軍が陣を敷いたらしい。至近距離で500mはない。この辺り一帯で、両軍の戦いが繰り広げられたのであろう。土塁跡、帯曲輪群から切岸と呼ばれる斜面を崖状に削った防御施設を見る。最後に、長谷堂観音に参拝して下城した。八幡崎口下へと戻ると、ボランティアガイドの方がおられて、少し話すことが出来た。長谷堂の戦いでは、2万の大軍を率いた直江側が小城を攻め切れず、関ヶ原の敗報を知り撤退し始めたが、そこを最上側が追撃して勝利したといわれる。何故と質問すると、長谷堂戦の前、1514年米沢から伊達稙宗が侵攻した際水田に川から水を引き深田として対抗した経験を生かして、これが相当有効であったと伝わると教えてくれた。この城跡は山形在の従兄弟が案内してくれると約束していた。彼は今春に早世して果たされなかった。残念としか言いようがない。 


長谷堂城跡の前に山形城跡を散策した。霞城とも呼ばれるが、これは直江が長谷堂戦で遠望した時霞が掛かり見えなかったことに由来するらしい。北山形駅から大手口へと歩き、北門から城内へと入って、内濠沿いの土塁の上を西から南へと巡り、南門を出た。高校時代から良く知ったつもりの城跡であるが、本丸跡が意外に広いことに気付いた。水を湛えた内濠は秋の紅葉を写していた。

恩師を囲む芋煮会は、先生初め大先輩達や若いOB20人程が集まり、開始された。皆30,40年数年振りの方が多かったがお元気でそう変わりはなく、直ぐお互いを確かめることが出来、若き日の高校時代を思い出して、話は弾んだ。残念ながら山形から少し距離のある実家へ戻るため、途中で退席した。
(2010/11/13歩く)  13回卆 工藤 莞司

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