2011年12月12日月曜日

私の山歩き里歩き紀行・山形編(9)



同期会小野川温泉旅行の前にまほろばの里・高畠を歩く
 



 旧職場同期会から旅行の案内が舞い込んだ。今年の旅行先は、米沢市小野川温泉とある。山形県では知られた温泉だが一度も訪ねたことがなく、参加することにした。その前に何処の山に登ろうか、いずれの里を歩こうか考えあぐねたが、JR東日本が設けている「駅からハイキングコース」の中に「まほろばの里・高畠」を探し出した。高畠は、山形県南部の置賜地方に属し、米沢の直ぐ先で、小生には未知の里である。
 山形新幹線を高畠駅で降りる。車中同期のNさんに会い、ハイキング後に小野川温泉に向かうことを伝えた。駅前で周囲を見渡すと、四方山に囲まれ置賜盆地の中を実感する。JR設定コースには駅を過ぎてから合流し、田圃の中を進む。小生が未だ高校生であった頃は、確か高畠町までは私鉄が走っていた筈で、どうもその廃線跡が現在サイクリングロードであり、ハイキングコースのようだ。したがって、コースは田園地帯のど真ん中をほぼ直線的に貫いている。当時山形県内にも、短い区間ではあったが、高畠の外に、尾花沢や羽前高松、湯野浜にも私鉄が走っていた。現在ではすべて廃止されてしまった。我が国昭和40年代以降のモータリゼーションには勝てなかったわけだろう。 コースの周辺には人気は少なく、農作業をする夫婦や時たま自転車通学の高校生に出会うだけだ。いつものようにラジオを聴きながら高畠町内を目指す。YBC山形放送は久しぶりだ。堰で釣をする老人を越して、当地出身の童話作家浜田広介記念館、中学校前を通り、果樹園地帯を抜けて高畠町内に入った。 しかし、相変わらず、車どころが人影も見当たらず、付近には晩秋感が漂い、「時間が止まっている感じ」とはこのような状態をいうのだろうと思った。



 ようやく当時の高畠駅跡に到着し、町内に遺るという高畑城跡を探すことにした。承安年間(1171-1174年)藤原秀衡の従兄弟橋爪五郎季衡が築城し、伊達、上杉氏を経て、幕末には織田信浮が居城したという。現在でも内壕跡だけが遺るらしい。街中といえども人通りは少ない。道路も鉄路も幹線から外れた地域は、戦前や土地によっては、明治、江戸時代の面影を街並みに残している。高畠もそのような街だ。中央商店街も自ら昭和ミニ資料館と命名している程に、戦前からのような店構えの建物がそちこちに見受けられる。東映時代劇映画全盛期(昭和30年代)のポスターを見付け懐かしさに思わずカメラを向けてしまった。城跡は、小学校側に探し当て、証拠と記念に小さな水壕をカメラに収めた。 高畠は亀岡の文殊様で有名だ。三大文殊の一つで学問の神と言われている。町内から離れてるらしいがここまで来て寄らないのは心残りで、タクシーを奮発した。変哲のない山寺だが807(大同2)年徳一上人建立とあり、由緒、歴史ともにある古刹。入試合格祈願の寄せ書きに、母校東根一中のものを見付け、ここまで神頼みしているのかと、感心してしまった。故郷東根からは列車でも約2時間と思う。それだけ受験が大変なのは今でも不変ということだ。



 高畠駅から米沢駅に戻り、小野川温泉行きのバスに乗った頃には日はとっぷりと暮れてしまい、旅館に着いた時は最後の到着メンバーとなり、宴会が始まる直前だった。                                                           (2001/11/11歩く 13回卆 工藤 莞司) 

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