前々日に続いて、山刀伐峠に芭蕉を追う
前夜の祝賀会の余韻を残しながら、さくらんぼ東根駅から新庄行きの特急に乗車した。拙著の出版祝いが故郷東根温泉で開催されて、私事ながらも、友人知人に、恩師も含めて18名の方々に参加して戴いた。中には10数年振りの同級生も数人いた。持つべき者は友人である。地元在の3人の同級生が企画してくれた。感謝に堪えない。 本日帰京の序でに、庄内酒田市内を歩こうとしていた。天候は良くない。新庄に近付くにつれて、車窓から西方には暗い空が見える。酒田は西である。反対側の東方は雲が出ているものの未だ少し明るい。午前中は持つかもしれない。列車は新庄駅到着、急遽陸羽東線へ乗り継ぐ。山刀伐(ナタギリ)峠を歩くことに変更した。資料は持参してザックの中にある。
二両編成の列車は山間を走る。外の風景は山村そのもので、山裾の僅かな平地に民家が点在し、田畑の中に駅がある。商店街があり、民家が集まっている訳ではない。停車場である。そして、山が迫り谷川、国道、鉄道と並行している地が次々と現れる。我が故郷とも違い、戦前否、明治期の農村を見るような思いであった。新庄から小一時間で赤倉温泉駅に着き、タクシーで山刀伐峠下へと入った。紅葉が綺麗で最盛期だ。運転手は見頃も最後で明日は雪の予報と教えてくれて。途中、赤倉温泉を通過。家内の退職祝いに兄夫婦が招待してくれたのがこの温泉であった。多分7年前の夏だったと思う。 山刀伐峠は奥の細道として、芭蕉一行が越した峠。1689(元禄2)年陸前平泉、鳴子尿前の関から中山越を経て出羽に入り、尾花沢の弟子鈴木清風宅を目指したことは知られている。梅雨期で国境の堺田封人の家滞在を余儀なくされ、近道し 出会った峠である。この様子を描いた大きな油絵が、新庄駅待合室に展示されていた。 赤倉側麓から案内に従い、芭蕉達が通ったであろう古道を上がる。連休の谷間であるが駐車場は空。単身ゆっくりと上がり続ける。一度細道を離れて、紅葉の下旧道を行く。舗装されているが広くはなく山腹を大きくくねる道。新道のトンネルが出来るまでは、路線バスが走ったと聞いたことがある。再び直登の小径を見付けて、峠へと上がった。
山刀伐峠は二度目。兄や姪とドライブして寄ったことがある。祖父母の法事の時であったから、もう20年前であったろうか。予定変更を実家の兄へ連絡したが携帯が繋がない。頂上の子持ち杉に再会して、反対側へと下り始める。こちらは黄色の紅葉だ。楢や山毛欅の広葉樹が多いのだろう。杉林の中へと進入。道無き道を越した当時とは比べものにはならないだろうが薄暗く寂寞感が漂う。俳聖達も難渋したようだ。程なく、旧道へと出て、尾花沢側峠出口であった。燃えるような紅葉を愛でながら一休みして、峠を上り返した。今度は旧道を歩き、赤湯側へと下りた。丁度小雨がぱらついてきた。 予約したタクシーに時間通りに迎えて貰い赤倉温泉駅に戻り、陸羽東線古川駅へ出て、出版祝賀会や奥の細道ハイクに満たされた気分で、新幹線で帰京した。 (09/11/2歩く 工藤 莞司 13回卆)
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