中国の数学を引き継いで江戸時代に日本で独自に発達した数学─和算─。その和算家として、関孝和(せきたかかず1640頃~1708)は日本史の教科書にも登場するので有名であるが、會田安明(あいだやすあき1747~1817)と安嶋直円(あじまなおのぶ1732~1798 江戸詰の戸澤藩[新庄藩]士)の名はあまり知られていないのではないだろうか。それも、我が郷土、山形県に縁のある大和算家であることは。
山形市滑川・禅昌寺の石碑 |
會田安明は延享4年2月、出羽国山形城下(現在の山形市七日町の大沼デパート付近)に生まれた。幼名を重松(じゅうまつ)という。彼が数学の道に入るきっかけは、9歳(数え、以下同)の時にもらった九連環という知恵の輪を一晩で解決したことだと自ら述べている。
少年時代は将棋や角力、けんかも滅法強かったが、16歳の時山形市十日町にあった岡崎安之の居合と棒術、算術の道場へ入門する。算術では二百日程で皆伝を得てしまい師範代になったという。
明和6年9月23歳の時大発奮し江戸へ出る。父親の本家である内海家からもらった金で旗本の株を買って鈴木清左衛門の養子となり、名を鈴木彦助安旦(やすあき)と改める。御普請役として鬼怒川・下利根川などの川々の見分を務めるが、天明7年41歳の時思いがけない出来事から御役御免となり浪人する。
それは前年の十代将軍家治死亡による家斉への御代替りによる影響であった。しかし會田はこのことを「予が深願をあわれみて、天より閑暇を賜りしもの也。故に予生涯の本望を達すべき時いたりしゆえ、天を拝し、地を拝して大きに悦び、是より日夜少しも、おこたりなく、数学の道をはげみし也」と喜んでいる。
以上のことは會田61歳以降の著と思われる自叙伝『自在物談』に載っている。これは、彼の幼少のころから御普請役を辞めさせられた時までの山形での遊びや山形の人々の生活、江戸での仕事の状況などを記したもので、現在は山形市前明石の内海家に保存されている。筆者も昭和50年に拝見している。
以後は、晩年には歩行困難になるほど一心不乱に学者生活を送ることになるのだが、彼の名を世間に知らしめ、同時に数学への関心を持たせたのは、関流の和算家で名教科書『精要算法』を著した藤田貞資(ふじたさだすけ 1734~1807)との20年余にも及ぶ論戦だった。
この藤田の名著に刺激された35歳の會田は、芝の愛宕山に算額を奉納し、同僚で藤田の高弟神谷定令を介して弟子入りを請うたが、愛宕山の算額の誤りを指摘され、人一倍負けず嫌いの性格が『精要算法』の批判本『改精算法』(天明5年刊、會田39歳)を書かせることになったのである。
神谷はこれに対して『非改精算法』を著したため、會田は出身地の最上に因んで最上流(関流を超えているという思いから「さいじょうりゅう」と読ませるのが普通)という流派をつくり孤軍奮闘を続けた。[斯波兼頼が南北朝時代に北朝方の羽州探題として山形の地に入部した時、当地の地名をとって名字を最上と名乗ったということから、山形市街地は、平安期よりこの頃までは最上郡最上郷と呼ばれていたという。
會田が浪人となってからは再び會田姓に復し、名を安明、通称を算左衛門、字を子貫と言い、自在亭と号した。
會田の数学は独創性という観点からみれば、藤田の兄弟弟子でもある安嶋直円の上には出ないようで、むしろ数学教育家と言った方が当たっているという。
安嶋は、我が国で初めて今日で言う二重積分の領域に到達した人であり、また対数表の作成や三斜三円術(三角形の2辺ずつに接し、かつ互いに外接する3円の求径問題─1803年にイタリアのMalfattiが提示した問題と本質的に同じなので、安嶋が世界初と思われる─)の解法などを行っている。
會田は、しかし、数学はもとより多岐の知識に精通し、遺した著作は文化6年作の『算法伝書目録』によれば1300余巻、うち非算書は『日本国史略』など200巻で、刊行した数学書は8種である。伊能忠敬とも交流があり、次男の渡邊慎は伊能の身辺の世話をした弟子であった。
會田の数学に対する根本的精神は、「通術」という共通な一般的法則を求めてこれまでの学理を体系的に簡単化することであった。また、「貫通術」と呼んで図形問題を拡張して一般的性質を発見したり、結果へ導く方法に独特の工夫を図った。
山形市立図書館前の胸像 |
會田の数学の業績をいくつか紹介する。
① 天生法(會田の自称)の創設 関孝和が創始した天竄術(てんざんじゅつ。我が国初の筆算による代数学)を改良したもので、特徴の一つは、関流では避けていた除数に未知数が含まれる場合の計算法を編み出したことである。すなわち分数方程式の導入で、18歳の頃という。また、等号を導入して代数式と方程式の区別をつけたのも長所である。
② 対数表の作成 対数表は我が国へは1700年代に外国から入ってきており、 安嶋も特殊な対数表を作っているが、會田のは2を底とする対数表から常用対数を得るという手法で、和算研究家の遠藤利貞は、安嶋のと比較して大いに優れるところありと称賛している。
③ 零約術の研究 平方根を近似分数として表わすのに、新しい方法と規則を示した。
④ 綴術(てつじゅつ)の研究 累乗根の計算における無限級数展開の公式を、新しい方法で導いた。
⑤ 本格的な数学の良教科書『算法天生法指南』を著す。文化7年。64歳。天生法の研究成果のうち、幾何図形の問題を5巻にまとめたもので、以降の和算の研究と教育に多大に貢献した。
會田は晩年、郷里に帰ろうと大方の算学書類を内海家に送っていたが、文化14年10月浅草で没した。享年71。墓は本所の即現寺にあったが、関東大震災で焼けたため芝公園の金地院墓地へ改葬された。浅草寺境内には、三回忌に門弟と子孫によって算子塚(會田が愛用した算木を埋めたもの)が建てられ、「會田先生算子塚銘」と刻された石碑がある。
山形市においても、一周忌の文政元年に滑川の禅昌寺に弟子等により石碑が造立され、没後百年記念として大正5年に十日町の実相寺の會田家の墓地に會田光栄により墓碑が建立されている。表に「數學院殿無量自在大居士」と刻されている。また、昭和55年に小荷駄町の山形市立図書館前に山形ロータリークラブにより胸像が寄贈された。
没後百年祭が大正5年10月に、百五十年祭が昭和41年9月にそれぞれ七日町の長源寺で行われた。
小林 正幸(山東15回)>会報62号より転載
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