美術の授業では、普通は絵を描いたり、工作をしたり、粘土で立体物を作ったりして「作品」を作ります。それらは制作の結果として作品という具体的な「モノ」を残します。それらは画用紙や絵の具、木材、陶器など実際に触ったり、手に取ったりすることができます。ところが美術のなかには「モノ」として残らない作品群が存在します。一般にはなじみの薄い「作品」だと思いますが、小学校などでは「造形」という名前で、必ずしも具体的な作品を残さない美術が少しずつ浸透しつつあります。それらはどんな「作品」であり、どのような考え方に立脚した制作方法なのかを紹介したいと思います。
1970年代に松澤宥(マツザワユタカ)が発表した作品は、美術館の壁に小さな紙切れを一枚ピンで留めただけの、それが作品として提示されていなければ、誰もそれを作品とみなすことはなかったであろうものであった。紙の上には手書きの文字で「ここを過ぎるときに、一羽の白鳥を思い浮かべよ」と書いてあった。
いったいこれは作品と呼べるものなのか、疑問と嘲笑が起こったことは当然の成り行きといえたが、同時に、松澤が美術館の中で提示した「白鳥」は、詩人の気持ちを理解できる繊細さを備えた人たちの心を確実にとらえていったのだった。
人物ではなくその影だけを描いて名前を知られるようになった高松次郎は、あるとき文字だけの作品を発表した。それは、タイプライターでなんでもない紙にまるで本の表紙のようにど真ん中に大きくこう印刷されてあった。「この七つの文字」。さらに彼は英語ヴァージョンも作った。「THESE THREE WORDS」。
作品を詳しく説明していくと、とんでもない行数が必要になるので省くが、具体的なモノを残さない作品があるということ、そしてそれらはわれわれの網膜にその美しさを映し出すのではなく、われわれの気持ちと思考に直接訴えかけてくるものであるということを理解していただければ充分である。
モネの「睡蓮」を見てわれわれが美しいと感じる。実際に作品を目の前にするとその迫力に圧倒される。では、実際に本物を見ないとその美しさはわからないのか。そうかもしれないが、われわれが知っているモネやピカソやミケランジェロはほとんど作品の写真を通してのものではないだろうか。もちろん本物を見ることが大切だが、写真だけでも、その美しさや迫力をある程度味わうことができる。本物を見ている時間だけが本当に鑑賞していることになるのかというと、実はそうでもないのである。実際に見たものが、眼と網膜を通して脳の中に定着する。われわれがそれを思い出すことによってさらに、その美が強まることだってあるだろう。モネの「睡蓮」の細部を思い出すことができなくても、その美しさはわれわれの脳のなかで、美という概念を作るのである。美とはどこにあるのか。それは作品そのものではなく、われわれの脳の中の記憶とその働き、概念化された「美」のなかにこそあるのである。美とは概念であってモノではない。プラトンならイデアというだろうか。この考えをつきつめていくと、では作品はモノを跳び越えて概念そのものを提示してもいいのではないか、という結論に達する。この考えを具体的に作品にしていったのが前述した松澤であり、高松である。それは大胆な実験であったが、次第に受け入れられるようになり、概念芸術と呼ばれるようになった。それは海外の美術シーンとも連動しながらコンセプチュアルアートという言い方を定着させた。 コンセプチュアルアートの先駆けとなったのは、1920年代のマルセル・デュシャンだろうか。彼は既製品の男子用便器を逆さまに置いて、そこにサインをした。タイトルは「泉」。この作品の謎と意義については幾百の評論家が論じているのでなにもいうことはないが、デュシャンにとっての制作行為は、便器を「選ぶ」という行為であるというところを覚えておいていただきたい。選ぶという行為は表現になるのである。選んで意味を転倒させる。
最近見た作品で面白かったのは、東京都現代美術館に「展示」されていた母袋敏哉(字の記憶があやふや)の輪ゴム。われわれがよく目にする輪ゴムが箱ごと床に置かれている。箱のまわりに輪ゴムが散らばっている。それだけの作品である。その隣に彼のメッセージが添えられてあった。「この輪ゴムを潜り抜けることができますか?」。これは明らかにやってみろ、という挑戦状である。やるしかないだろう。やってみた。できるわけないだろう、すぐに輪ゴムは切れてしまうと思いながら頭を通した。必死に身もだえして、気がつくとなんと輪ゴムは切れずに足まで進み、わたしは輪ゴム潜り抜けに成功していた。足元にのびきった輪ゴムがころがった。よくみると箱のまわりに散らばっている輪ゴムの中に、のびきったものをたくさん見つけた。わたしのような挑戦者は輪ゴムの数だけいたということが楽しかった。この作品は見ただけでは味わうことができない。鑑賞者が「参加」しないと作品は成立しないのである。参加者の行為そのものが作品の一部であり、その行為から味わったものこそが作品なのである。作品はわれわれの「中」に存在する。最近はこのような「参加型」の作品が増えてきている。
モノとして残らない作品の代表的なものにパフォーマンスとインスタレーションがある。パフォーマンスは行為するという意味である。演劇を演ずるのもパフォーマンスだし、歌をうたったり、楽器を演奏するのも、漫才をするのもパフォーマンスである。今では普通にこのパフォーマンスという言葉が使われるようになってきたが、日本にこの言葉が上陸したのは1970年代、コンセプチュアルアートが流行り始めた時期とほぼ同時である。美術作品としてのパフォーマンスがまず注目され、その後次第に一般の人たちに流布していったとみるのが妥当だろう。美術作品としてのパフォーマンスを見たことがある人はそう多くはないかも知れない。日本語だと身体表現という言葉が適切だろう。人間の身体というものに美術が注目し始めた時期でもあった。ダンスに似たものだったり、言葉を発する作品だったり、日常から逸脱したような行為に耽るかのような奇妙な作品、エンターテインメントに徹したもの、さまざまな作品が、(展示ではなく)発表されるようになった。
パフォーマンスのペアとして来日したものにインスタレーションという作品形態がある。インストールという言葉はご存知のことと思うが、インストールの名詞形がインスタレーションである。設置美術と訳されることが多い。絵画や彫刻のように一度作ったら、そのままの形でいつまでも(のように思える)存在するものとしての作品とは正反対の、いずれ消えてしまうことを前提とした作品である。一時的にそこに設置され、展示が終わったら解体され撤去されるもの。画廊の中に巨大な石が置かれているだけの作品、壁から壁へ糸を張り巡らせた作品などバラエティーに富んだものが、銀座のギャラリーを席巻した。いずれなくなってしまうものがインスタレーションだとしたら、生け花もその特徴を備えた芸術であるということができる。
パフォーマンスとインスタレーションの共通点は、その一過性にある。パフォーマンスは演劇や演奏と同じように、演じられているその時間に居合わせないと鑑賞することはできないし、終わってしまえばもう逆戻りはできない。インスタレーションは展示が済んでしまえば作品そのものが存在しなくなる。このような消えていく作品、あるいはコンセプチュアルアートのような最初からモノとしての実態のない作品はどのようにして生まれてきたのだろうか。
第二次世界大戦は広島と長崎の原子爆弾投下という未曾有の悲劇によってその幕を閉じることとなったが、同時に世界にとっては核という脅威にさらされ続けることになるという別の悲劇の始まりでもあった。現在世界は核の脅威にさらされ続け、ボタンひとつで地球そのものの存在が消えてしまうことは誰でも知っていることである。我々は存在そのものが、いつでも意味も無く容赦なく削除されてしまう可能性があることを自明のこととして、受け入れざるを得ないのだ。そのような世界に住むわれわれにとって、なにが確かなものであるか、永遠とはなにか、未来とはなにか、現在とはなにか、という問題は、改めて自問しなければならない生きるための検定試験である。そんな状況のなかで、美術はなにができるのであろうか。もはや我々には永遠や希望に満ちた未来とういものは残されていない。確かなものを失った現代のなかで、必死に悩み、試し、考えた末に産み出された表現形式がパフォーマンスでありインスタレーションであったのだと私は理解している。未来に希望を失いながらも、今というこの時間のはかなさ、大切さ、いとおしさをなんとかして伝えたいという情熱に支えられて出現した表現なのである。コンセプチュアルアート、映像作品の氾濫、参加型作品の出現、コミュニケーションそのものを作品として提示すること・・・。こららはみな、現代を生きるわれわれの懊悩を伝える作品であり、袋小路に入ってしまった世界に対する反旗である。 世界を「不条理」と捉えたアルベール・カミュが、不条理のなかで決して自暴自棄にならず、「誠実」に生きることを提唱した意味を、今、我々は検定試験のひとつとして、再度自分に問うべきであると思う。現代美術の表現の一形式として、コミュニケーションアートというものがある。人と人との繋がりやネットワークをテーマにしたり、作品の成り立ちそのものがコミュニケーションという目に見えないものだったりする作品群である。メールアートと呼ばれる郵便物を使った作品がその典型だろうか。例を一つ。
ニューヨークで活動している河原温(カワラオン)はニューヨークから日本の知人に宛てて葉書を航空便で発送する。葉書は毎日一枚ずつ投函され、それが途切れることなく、何日も、何ヶ月も、何年も続くのだ。その葉書にはすべて同じ言葉が書かれている。「I‘m still alive.」。私はまだ生きている。この作品は何千枚もつなげられて、美術館に展示され、多くの人に衝撃と感慨をもたらした。作品を見た人たちは、このメールアートを通して、河原の切実なメッセージを確実に受け取ったと思う。そして、そのメッセージは今まで書いてきたさまざまな現代美術の表現に共通したメッセージでもあるのだ。われわれは、もう少し注意深く、美術を通して、世界を見、自分を見つめなおしてもいいかもしれない。I‘m still alive.
現代美術の表現方法を美術の授業で取り上げて指導していくことは、美術の教員の中に少しずつ浸透してきています。とはいっても、実際に現代美術を授業として成立させていくことは、それほど簡単なことではありません。何よりも作品をたくさん見て、理解を深めることが必要となります。現代美術は思考の柔軟性のあるこどもの方が、頭の硬い大人よりも、素直に受け入れ、楽しみながら、深い理解を示すといわれていて、実際に指導してみると、そのことが実感されてきます。 こどもを指導するのに必要なことは、教材の準備や、指導方法の研究とともに、まわりの人たちが、その意味と意義を正しく理解していることです。そしてこどもたちといっしょに楽しみながら、作品制作や作品鑑賞を通して、世界や人間、今という時間や、生きている自分というものに眼を向けることではないでしょうか。
(吉岡 政美:昭和56年卒、互一会)
0 件のコメント:
コメントを投稿